知ってる?ワイン話
初の日本ワイン!?400年前に小倉藩・細川家が造っていた「ぶだうしゆ」とは
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初の日本ワイン醸造は400年前!?
永青文庫史料の研究調査により明らかになった細川家のワイン醸造
熊本大学の発表によると、小倉藩細川家の当主 細川忠利がワインを製造させていたことが明らかになったそうです。
「永青文庫」などの史料によると、葡萄を用いた醸造酒が生産されていた記録は1627年(寛永四年)から1630年(寛永七年)の4年間。
江戸時代初期の鎖国完成直前にあたる期間、今から約400年前ほどの時代です。
発表された「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」によると、熊本大学永青文庫研究センターの研究により、「がらみ」と呼ばれる山葡萄、黒大豆の酵母を用いて醸造酒を造っていたことが明らかになりました。
これは、日本で栽培した葡萄を用いて国内で醸造する「日本ワイン」の第一号にあたる可能性がありそうです。
細川忠利が重宝した、薬としてのワイン
細川忠利がワイン造りを命じていた背景には、自身の健康問題とキリシタン禁止令がありました。
外国からもたらされた当時のワインは、貴重な嗜好品であったと同時に、薬酒としての効能も重視されていました。
病気がちであったという細川忠利にとって、自身の健康を守るために必要なものであったのかもしれません。
史料には、当時は鎮痛剤や咳止めとして用いられていたというアヘンを製造していた記録も残されていたそうです。
ところが、愛飲していたワインは、キリシタン禁止令の影響で入手が難しくなってしまいます。
ワインはキリスト教の布教にも用いられていたことから、幕府の目を恐れた商人が取り扱いをやめてしまい、流通が減ってしまったのです。
そのため、家臣に命じて「ぶだうしゆ(葡萄酒)」を造らせた細川忠利でしたが、参勤交代で江戸へ赴くにあたって葡萄酒を送るよう命じたあたりを最後に、ワインに関する記述は途絶えました。
忠臣としての名声を持ち模範的大名でもあった細川忠利にとって、キリシタンの酒として認識されていたご禁制のワインを扱うのが難しくなったことが原因と推察されています。
悲劇の女性として映画や小説など様々な作品に登場する細川ガラシャ夫人を母に持つ細川忠利。
ワインを飲む時、健康への願いだけではなく、キリシタンであった亡き母へも思いを馳せていたのかもしれません。
ちなみに、父親の細川忠興は利休七哲の一人として茶道にとても精通していた人物。
神谷宗湛の日記でも、石田三成が宇喜多秀家、伊達政宗、小西行長を招いた茶会で長崎伝来の葡萄酒を振舞ったと記されており、忠興もワインを飲んでいた可能性が高いです。
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出典情報
■タイトル
小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景
■著者
後藤典子
■掲載誌
「永青文庫研究」創刊号 (発行:平成30年3月)
■熊本大学プレスリリース
「400年前の国産ワイン醸造の詳細が明らかに ―永青文庫史料の研究調査により薬用アヘンの製造も確認―」
https://www.kumamoto-u.ac.jp/whatsnew/zinbun/20180402
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